グリニッジヴィレッジの並木道で、ぼくは立ち止まった。緑の木漏れ日の中、細い小枝に青い鳥が佇んでいた。春の鳥だろうか。名前は思い出せないが、去年も見た覚えがある。巣を作って子育てをしていた。あれは親鳥だろうか、それとも巣立った子供の方か。
心地よい風に揺られながら、鳥はいつまでも鳴いている。仲間は誰も居ないのか。傍らで、真っ黒なカラスがあざ笑うようにカァカァ鳴きながら飛び立っていく。
もしも君があの鳥だったら。ぼくも鳥になってあげないとな。
それが駄目なら、走高跳びをもう一度練習して、君の隣まで跳んでみよう。そうしたら、君のびっくりする顔が見れるだろう。
その顔を想像すると、思わずくすくすと笑ってしまう。
ぼくはどんなことをしてでも、君の隣に居たいんだ。
自由の象徴と言われる鳥の世界だって、厳しい生存競争にさらされているだろう。走高跳びが、厳しい勝敗の世界だったように。
でもぼくは、君が自由に空を飛びまわって、あのきれいな緑色の目を輝かせるところを見てみたいんだ。
「写真、撮らないのか、英二」
背後から、友人の声がする。
鳥が鳴き声をあげる。ぼくはシンに視線を向けないまま、首を振る。
思い出した、あれはブルージェイだ。その名の通りの青い羽色に、ジェイ、ジェイ、と鳴く声が由来だ。
もしかしてあの鳥は、ぼくだったのかな。
冬でも渡りをしない鳥が、ずっと君を呼んでいる。翡翠の名を持つ君を。
「お前はどんなことでも、全部アッシュに結び付けるんだな」
まるでぼくの考えを読んだように、シンは感情を抑えた声でぼやく。
そうだよ。ぼくの世界は、もう彼無しではいられないのだから。
もしもぼくが神様ならば、君を日本へ連れていく。
夏のお祭りを見せてあげたい。賑やかな出店を一緒に回ってみたい。君に射的をやらせたら、百発百中だろう。
暗いところが怖かった君に、夜を照らす花火も見せたい。
でも真夏の猛暑に君はバテてしまうかも。そうなったら、冷たい氷菓子の美味しさを教えてあげたい。
次から次に君に見せたい夏の景色が思い浮かぶ。それぐらい、何度も君が日本に来てくれた時のことを想像している。
でもそんな穏やかな日常と同時に。君に闇が忍び寄る光景も、容易く思い浮かんでしまう。
ニューヨークに仲間を残したままで、君は一人、平和な世界で生きることが出来るだろうか。罪悪感に、苦しめられはしないか。
暴力という手段で苦難を乗り切った君が、その力を完全に捨てることが出来るのか。日本に居ても、君は闇の世界へ、密かに手を出すだろう。
そして、今までの過去も君を苛む。命の危険に晒されない夜でも、何度も君は悪夢に飛び起きてしまう。
そんな時は、ぼくは君のそばにいて。
君が苦しむたびに、背中をさすってあげたい。
震える肩を、抱きしめてあげたい。
君にお盆を教えたい。死者が返ってくる日。君の友人を想う日。
決して、辛い事だけを思い出させたりしない。ショーターの楽しい思い出を、共に語り合いたい。
苦しい闇夜は、ぼくと一緒に過ごそう。
「おれも行ってみたいな、その平和な日本に」
シンが、ぼくの隣で冗談めいて呟く。
そうなったら、ぼくが案内するよ。そう伝えれば、チャイニーズギャングをまとめるボスは苦笑しながら口を開く。
「お前も、アッシュを連れて行くつもりで、日本に行きな」
そのつもりだと、ぼくは笑い返したけど。たぶん、上手く笑えなかった。
日本には八百万の神様がいるのだから。この願いをかなえてくれる神様が、一人ぐらい居てくれたらいいのに。
もしもぼくが神様ならば、君に平和な時代で生まれ変わってほしい。
家族がいて。お兄さんがいて。好きなスポーツを続けることが出来て。食べるものにも眠る場所にも困ることは無い。
ケープコッドの家で、どこにでもいるアメリカ人の少年の顔をしてほしい。秋の田舎で、柔らかな黄金色の麦畑で笑っていてほしい。
もしかしたらカボチャ嫌いはそのままかもしれない。
申し訳ないけど、それを聞いたら、ぼくはまた笑い転げてしまうと思うんだ。その時は、思いっきり拗ねていいよ。君のそんな顔も、ぼくは好きなんだ。
そんな穏やかな世界でも、君に苦難が訪れるかもしれない。
でも、例え辛いことがあっても、必ず君の家族が助けてくれるから。
だから、何も心配しなくていいんだよ。
ぼくも隣で、君を支えてあげたい。
行けるのならば。すぐにでも君の世界に行きたいけれど。
この世界には、君のお父さんがいる。きっとどこかに、君のお母さんも。
もう誰も居ない、君の家もある。
ぼくが知っている君を語れるのは、ぼくだけだ。
「そうだよ。もしもお前が居なければ、バディはゴミ捨て場でゴミとして棄てられていただろうさ」
シンが、ぼくを他人のギリギリのSOSを感じ取る人だと評したことがある。
何となく、ゴミ捨て場でかすかに動いたものが気になった。犬の鳴き声がしたわけじゃないのに、ぼくが呼ばれた気がした。それがバディとの出会いだった。
もしも君がいる世界に行ったのなら。ぼくは、同じくバディの存在に気づけただろうか。
「いーや、断言する。お前はどんな世界でも、バディを助け出してた。そんなお前の性分を、アッシュは愛していたんだ」
はっきりと言い切られて、ぼくは胸がギュッと締め付けられた。
こことは違う世界で、シンとまた出会うことがあったら。
次は、すぐにでもシンのSOSに駆けつけるよ。
もしもぼくが神様ならば、君にもっと時間を与えたかった。
君がまだ生きているんじゃないかと、今でも思っている。
君に似た後ろ姿を見つけるたびに、顔を確認せずにはいられなくなる。
君が生きていたら、また59丁目のアパートメントで一緒に過ごしたい。
朝に弱すぎる君を起こすのは骨が折れる。特に寒い冬は本当に起きなくて、何度諦めようと思ったことか。でもそれも、君との日常を彩る大事な時間だった。
君の好きな食べ物も、嫌いな食べ物も知っている。君と喧嘩した日は、いつでも嫌いな食べ物を出せるように冷蔵庫に常備しておこう。
君の仲間たちと、くだらない話をして、口汚いスラングを教えてもらって。そうして、いつまでも笑いあっていたい。
分かっている。
つまりその時は、君はまだギャングのボスであり。
その穏やかな場所を守るためだけに、殺し続ける道を選んでいるのだと。
銃を手放すことが出来ない君は、襲い掛かってくる苦難に容赦なく引き金を引く。
殺しても何も感じないんだと、自分が恐ろしいと涙を流す君を。
ぼくは無力のまま、見ていることしか出来ない。君の冷たい冬が、いつまでも明けない。
君を守るための、武器が欲しい。
銃じゃなくていい。朝に起こすための目覚まし時計でいい。アボカドとエビのサラダでいい。仲間の笑い話でいい。
いつだってそばにいる、君の日常でありたい。
「そうなったら、お前はまた、銃で腹に穴を開けられるかもな」
そうだね。ぼくの腹部には、今でも銃創が残ったままだ。
あの一生分の激痛が全身を襲った瞬間は、今でも思い出してもぞっとする。
でも、彼の身体も、同じく傷だらけだ。
お揃いの傷だって言ったら、怒られただろうな。
「あったりまえだ。おれも怒るぞ?」
ごめんごめん。
でもさ、君との運命を共有した証だと、嬉しく思っているんだ。本当に。
ぼくは、神様じゃない。
日本の神様もアメリカの神様も、祈りを聞き届けてくれなかった。
君の、まるで眠っているような、あまりにも穏やかな顔を見た時。
ぼくがどうなったのか、ぼく自身、よく覚えていない。
ぼくがどれだけ嘆いたか。
ぼくがどれだけ自分をなじったか。
時間が止まったかのような感覚が、ようやく通り過ぎた後。周囲が当時のぼくの様子を教えてくれたが、実感が湧かなかった。
君の後を、追いかけようとした。
ぼくがどれだけ涙を流しても、ここはもう、君が居ない世界だ。
人生でこれ以上無いと思えるほどの、絶望の中。暗い気持ちを帯びた単語が、何度も頭をよぎった。
でもその度に、ぼくが撃たれた時の、君の悲痛な表情が。
病室で聞いた、君のかなしい声が。
崖っぷちのぼくの心を、踏みとどまらせた。
そうして長い時間をかけて。
大きすぎるかなしみが、次第にぼくの心に、馴染んでいく。
君はもう、誰も殺すことは無い。
終わったことが救いだなんて、思いたくない。
それが幸せだなんて、言いたくない。言いたくないんだ。
もしも、君が日本に来たならば。
もしも、君とNYで暮らせるならば。
いくつも君の幸福な世界を思い描いては。そんなものは無いんだと、思い知らされる。
思い出だけが、心の中できらきらと輝いて膨らみ続ける。
心が、今にも破裂しそうだ。
「おれは、アッシュに殺されそうになったことがある」
ある夜に、シンは昔話を始めた。
ケープコッドの君の家で、ぼくらはソファにだらりと背を預けていた。ぼくらの会話が、静かな夜を染める。
「おれとアッシュの初対面は、ショーターの死体を焼いていた場面だった。最悪すぎるよな?」
シンはおどけるように笑ったが、ちっとも笑えない。
「おれは理由がさっぱり分からなくてさ。チャイニーズのボスとして、アッシュと殺しあわなければならない。それだけが、頭の全部を占めていた」
君が辛い選択をしなければならなかった時に、ショーターと関わりのある人間に、見られた。
君の気持ちは、ぼくなんかでは推し量れない。
「おれがアッシュに敵うわけなかった。あっという間に、喉元に銃口を突き付けられたよ」
でも、彼はシンを殺さなかった。
だからこうして、ぼくらは友人として今も共にいる。
「でもさ、それはきっと、運が良かっただけなんだろうな」
彼は、無意味に人を殺したがる人じゃない。
殺すことに、誰よりも苦しんでいる人だった。
「アッシュは、大切な一人を守るためなら、何一つ躊躇しない奴だった」
シンの言いたいことは、分かる。
「ラオも、大切な一人を守るために、躊躇しなかった」
分かってる。
君に殺されてしまった人たち、そして殺された人と関わりのある人たちは、君を決して許さないだろう。
君が死んだことを、当たり前だと嘲笑って唾を吐きかけるだろう。
許してほしい、だなんて言わない。
世界中が、君を許さなくったっていい。
君の運命を、ぼくも背負うと決めたんだ。
ぼくだけは、何があっても、君の味方だ。
前にも後ろにも進むことが出来ず、ただただ思い出に押しつぶされそうだった。
けれども、七年の時間をかけて、ようやく一歩、進んでみようと決意することが出来た。
閉じ込めていた君の写真を取り出したら。
君の笑顔に、もう一度出会うことができた。
そうだね。君はこんな笑顔だった。
ぼくの思い出の中で、きらきら輝いている笑顔と、同じだった。
苦しいものになっていた思い出が、懐かしくやさしいものへと。
夜が明けるように光が満ちていく。
ぼくの世界では、ぼくは神様だ。
君の思い出を、輝いた世界に出来るのは、ぼくだけだ。
誰かにとっては、悪魔でも。
君はただの、傷ついて怯える少年だった。
誰かにとっては、弄ぶだけの玩具でも。
君は過酷な運命に抗い続ける、かなしい闘志の持ち主だった。
ぼくにとっては、君との出会いが、人生で最大の幸福だ。
ぼくはぼくの出会えた君を、最高の友達だったと胸を張って叫ぶ。
だから、この先どんな未来があったとしても、ぼくは幸せなんだ。
例えどんな世界に君がいたとしても。
君と出会えたぼくは、今と同じく笑顔になれるんだ。
次に君と再会できた時は、また君の隣で、運命から君を守り続けるよ。
君は、雪山で凍り付いてしまった豹じゃない。
図書館に居る、ぼくが愛して、愛を返してくれた君だ。
ぼくの勝手な、思い込みでもいい。
君の運命が変わったのだと、ぼくは信じ続ける。
光も、闇も。
なつかしいものも、おぞましいことも。
君と過ごした幸せな日々も、君の壮絶な過去も。
ぼくと君が出会うために、ぜんぶ必要なことだった。
ぼくは、君の旅路のすべてを、愛している。