18話 呪


 雲一つない星空の下、夜の雪山を一人歩く。
 日付が変わろうとする時刻だが、月が出ているので周囲は明るい。
 逃げるには、不向きな環境だ。

「アタシは、どこまで逃げればいいのかな」

 風が吹いて、思わずケープを握りしめる。
 子供のころから身にまとっているケープ。
 これを捨てられたら、どれだけ良かったか。

「ティー! どこだ!」

 遠くから、かすかに声がした。
 もう二度と会わぬと決めた人の、声だ。

 追いかけてくるかも、と予想はしていた。
 それでも、もう、心は決めている。
 アタシは一切、彼の前に姿を見せない。

「頼む、返事をしてくれ!」

 木の影に隠れる。声を出さないように、手のひらで口を覆う。
 辺りには害獣もいる。あんなに大声を上げていれば、獣に見つかるかもしれない。
 聡い彼のことだから、そんな危険は冒さないだろう。

 そう思っていたのに。

 濁るような、唸り声。熊の声だ。かなり近い。

 熊は、アタシには気づいていない。
 雪原で声を上げている黒い人影に向かって、熊が一直線に突進する。

 即座に、草刈り鎌を手にした。

「その人に、近づかないでっ!」

 一閃。一撃で、熊の急所に入った。
 巨体が倒れる。
 唐突に緊張の糸が切れて、アタシは思わずその場に膝をついてしまう。

「やはり、出てきたな」

 背後から、近づいてくる足音。
 振り返りざまに叫んだ。

「何で逃げないのよ!」
「キミが近くに居る気がした。必ず、助けに来てくれるだろうと信じていた」

 賭けだったけどな、と彼は苦笑する。
 どうやら、わざと熊から逃げなかったようだ。
 アタシは彼の罠に見事に引っかかったらしい。

「そう。じゃあ、もう帰って」
「帰らないよ」
「しつこい」
「言っておくが、私はキミと同じことをしているだけだ」

 何の話だろうか。
 怪訝な顔をするアタシとは対照的に、彼は不敵な笑みを浮かべている。

「キミは、私がどんなに悪態をついても、諦めずに話しかけた。私も、決して諦めない。嫌われても、怒鳴られても、キミに何度でも会いに行く」
「ほんっと、頑固者ね」
「ティー。まずは、落ち着いて話をしよう」

 真剣に頼み込む姿に、アタシは息をのむ。

『時間を置いて、もう一度、話し合ってみたらどうだい?』

 ふいに、市長の言葉を思い出した。
 でも、嫌だ。
 さんざん、貴方を突き放したのに。
 今さら戻るだなんて、虫がよすぎる。

「キミは、私に告白してくれた」

 彼は、言葉を続ける。

「それは『ここに居たい』ということだ」
「アタシはもう、ここに居られないの。あの言葉も、嘘よ」

 自分でも、どの感情が本当で、嘘なのか分からない。

「あの言葉が、嘘か、本当か、そんなのどちらでもいい」

 彼が一歩、アタシに近づく。

「キミの感情が、嘘でも、本当でも。キミ自身が傷つくようなことを、言わないでくれ」

 ぎゅっと、心が締め付けられる。
 駄目だ、耐えられない。
 気づけば、手の届く距離にはもう、彼が居る。

「まずは、麓まで下りないか? 暖かい場所に行って、落ち着こう」

 座り込んだままのアタシに、彼は手を伸ばした。
 アタシは、顔をそむけたまま、その優しい手を掴んだ。

.

 しばらくの間、無言で歩き続けた。
 月明りの中、雪を踏む音だけが、響く。

「ティー、いや、タウと呼んだ方がいいのか?」
「どっちでもいい。名前なんて、ただの記号よ」

 タウ。傭兵団に拾われたときに、適当に名付けられた。
 消耗品の兵。文字通りの記号。
 思い入れなんて無い。

「いいや。名前は、呪(しゅ)だ」

 彼は断言した。
 何を伝えたいのだろう。呪だから、縛り続けられる、とでも言いたいのか。

「私はキミの過去を聞いた」
「誰から?」
「キミの同僚だよ」

 納得した。
 先輩たちがアタシの過去を調べたことは、以前に教えてもらった。
 むやみやたらに他人に話す先輩たちでは無い。きっと彼だけに教えたのだろう。

「キミは、私の古い呪術医の知識も大事だと言ってくれた。過去の知識が、現代を救うのだと」
「アタシと貴方では、過去が違いすぎる」
「同じ話だよ」

 ふいに、彼は頭上を指差した。
 その方向には、星空しか見当たらない。

「あの星空、何があるか分かるか?」
「てんびん座?」

 方向を知るために、一般的な星座の知識はある。

「てんびん座の、左下当たり。そこに、タウ星がいる」

 さすがに、星一つ一つの符号までは知らない。

「キミがてんびん座の星の一部だなんて、ぴったりじゃないか」
「何故?」
「感情が揺れ動く。善と悪をハッキリ分ける。キミらしい星だ」

 彼が足を止めて、アタシに向き合った。

「キミがその名に嫌な思い出があるのなら。もう一つ、名を贈ろう」

 夜空の星が一つ、強く瞬いた。

「タウ・リーブラ。キミを幸福にしてくれる名だ」

 彼の声が、全身に強く響き渡る。

「私が、幸福にする。キミにどんな過去があっても、私たちが共に居れば、新しいものに変われるはずだ」

 過去の呪術医がいたからこそ、今の薬師がいる。
 タウという過去に、新しい名前をつけて、幸福な名へと変えていける。

 彼が共に居てくれる未来が、今、目の前にある。
 どうして、涙をこぼさずにいられるだろうか。

「貴方は、アタシにたくさんの贈り物をくれた」

 この涙が、嬉しさからの涙だと、彼ならきっと分かってくれるだろう。

「アタシは、何を返せばいいの?」
「何も。私がただ、渡したいだけだ」

 それに、と彼はどこか嬉しそうに苦笑する。

「キミが勝手に、私にいろんなものをくれたんだ。お返しなんて、いらんよ」

 困ったな。
 それではアタシの気が済まない。
 だから、たった今、思いついたことを口にしてみる。

「アタシのタウって名前は、知ってる人も多い」

 先輩たちも。過去に居た傭兵団の者も知っている。

「でも、タウ・リーブラって名前は、貴方しか知らない」

 アタシは人差し指を口元に立てて、心からの笑顔を浮かべる。

「ね、このまま、二人だけの秘密にして?」

 静かな夜の、星空の下で。
 彼は微笑んで、頷いてくれた。