雲一つない星空の下、夜の雪山を一人歩く。
日付が変わろうとする時刻だが、月が出ているので周囲は明るい。
逃げるには、不向きな環境だ。
「アタシは、どこまで逃げればいいのかな」
風が吹いて、思わずケープを握りしめる。
子供のころから身にまとっているケープ。
これを捨てられたら、どれだけ良かったか。
「ティー! どこだ!」
遠くから、かすかに声がした。
もう二度と会わぬと決めた人の、声だ。
追いかけてくるかも、と予想はしていた。
それでも、もう、心は決めている。
アタシは一切、彼の前に姿を見せない。
「頼む、返事をしてくれ!」
木の影に隠れる。声を出さないように、手のひらで口を覆う。
辺りには害獣もいる。あんなに大声を上げていれば、獣に見つかるかもしれない。
聡い彼のことだから、そんな危険は冒さないだろう。
そう思っていたのに。
濁るような、唸り声。熊の声だ。かなり近い。
熊は、アタシには気づいていない。
雪原で声を上げている黒い人影に向かって、熊が一直線に突進する。
即座に、草刈り鎌を手にした。
「その人に、近づかないでっ!」
一閃。一撃で、熊の急所に入った。
巨体が倒れる。
唐突に緊張の糸が切れて、アタシは思わずその場に膝をついてしまう。
「やはり、出てきたな」
背後から、近づいてくる足音。
振り返りざまに叫んだ。
「何で逃げないのよ!」
「キミが近くに居る気がした。必ず、助けに来てくれるだろうと信じていた」
賭けだったけどな、と彼は苦笑する。
どうやら、わざと熊から逃げなかったようだ。
アタシは彼の罠に見事に引っかかったらしい。
「そう。じゃあ、もう帰って」
「帰らないよ」
「しつこい」
「言っておくが、私はキミと同じことをしているだけだ」
何の話だろうか。
怪訝な顔をするアタシとは対照的に、彼は不敵な笑みを浮かべている。
「キミは、私がどんなに悪態をついても、諦めずに話しかけた。私も、決して諦めない。嫌われても、怒鳴られても、キミに何度でも会いに行く」
「ほんっと、頑固者ね」
「ティー。まずは、落ち着いて話をしよう」
真剣に頼み込む姿に、アタシは息をのむ。
『時間を置いて、もう一度、話し合ってみたらどうだい?』
ふいに、市長の言葉を思い出した。
でも、嫌だ。
さんざん、貴方を突き放したのに。
今さら戻るだなんて、虫がよすぎる。
「キミは、私に告白してくれた」
彼は、言葉を続ける。
「それは『ここに居たい』ということだ」
「アタシはもう、ここに居られないの。あの言葉も、嘘よ」
自分でも、どの感情が本当で、嘘なのか分からない。
「あの言葉が、嘘か、本当か、そんなのどちらでもいい」
彼が一歩、アタシに近づく。
「キミの感情が、嘘でも、本当でも。キミ自身が傷つくようなことを、言わないでくれ」
ぎゅっと、心が締め付けられる。
駄目だ、耐えられない。
気づけば、手の届く距離にはもう、彼が居る。
「まずは、麓まで下りないか? 暖かい場所に行って、落ち着こう」
座り込んだままのアタシに、彼は手を伸ばした。
アタシは、顔をそむけたまま、その優しい手を掴んだ。
.
しばらくの間、無言で歩き続けた。
月明りの中、雪を踏む音だけが、響く。
「ティー、いや、タウと呼んだ方がいいのか?」
「どっちでもいい。名前なんて、ただの記号よ」
タウ。傭兵団に拾われたときに、適当に名付けられた。
消耗品の兵。文字通りの記号。
思い入れなんて無い。
「いいや。名前は、呪(しゅ)だ」
彼は断言した。
何を伝えたいのだろう。呪だから、縛り続けられる、とでも言いたいのか。
「私はキミの過去を聞いた」
「誰から?」
「キミの同僚だよ」
納得した。
先輩たちがアタシの過去を調べたことは、以前に教えてもらった。
むやみやたらに他人に話す先輩たちでは無い。きっと彼だけに教えたのだろう。
「キミは、私の古い呪術医の知識も大事だと言ってくれた。過去の知識が、現代を救うのだと」
「アタシと貴方では、過去が違いすぎる」
「同じ話だよ」
ふいに、彼は頭上を指差した。
その方向には、星空しか見当たらない。
「あの星空、何があるか分かるか?」
「てんびん座?」
方向を知るために、一般的な星座の知識はある。
「てんびん座の、左下当たり。そこに、タウ星がいる」
さすがに、星一つ一つの符号までは知らない。
「キミがてんびん座の星の一部だなんて、ぴったりじゃないか」
「何故?」
「感情が揺れ動く。善と悪をハッキリ分ける。キミらしい星だ」
彼が足を止めて、アタシに向き合った。
「キミがその名に嫌な思い出があるのなら。もう一つ、名を贈ろう」
夜空の星が一つ、強く瞬いた。
「タウ・リーブラ。キミを幸福にしてくれる名だ」
彼の声が、全身に強く響き渡る。
「私が、幸福にする。キミにどんな過去があっても、私たちが共に居れば、新しいものに変われるはずだ」
過去の呪術医がいたからこそ、今の薬師がいる。
タウという過去に、新しい名前をつけて、幸福な名へと変えていける。
彼が共に居てくれる未来が、今、目の前にある。
どうして、涙をこぼさずにいられるだろうか。
「貴方は、アタシにたくさんの贈り物をくれた」
この涙が、嬉しさからの涙だと、彼ならきっと分かってくれるだろう。
「アタシは、何を返せばいいの?」
「何も。私がただ、渡したいだけだ」
それに、と彼はどこか嬉しそうに苦笑する。
「キミが勝手に、私にいろんなものをくれたんだ。お返しなんて、いらんよ」
困ったな。
それではアタシの気が済まない。
だから、たった今、思いついたことを口にしてみる。
「アタシのタウって名前は、知ってる人も多い」
先輩たちも。過去に居た傭兵団の者も知っている。
「でも、タウ・リーブラって名前は、貴方しか知らない」
アタシは人差し指を口元に立てて、心からの笑顔を浮かべる。
「ね、このまま、二人だけの秘密にして?」
静かな夜の、星空の下で。
彼は微笑んで、頷いてくれた。